10月18日/朝
昨日より遅く起きたなと思った。
でも、台所からけいちゃんの物音がまだしてたから、ああ、実は早く目が覚めたのか、と思った。
お腹をぼりぼりかきながら台所に出て行くと
けいちゃんが洗面所で髪をむすんでいた。
おはよう。
おはよう。
ぱりっとした白いシャツに黒いパンツスーツ。
胸の下からお腹までが、控えめで綺麗な曲線を描いていて
それは髪を結ぼうと両手を上にあげていると余計に強調されて、うん、きれいだな、と思う。
そうか、今日はケアマネの日か。だからスーツで、出勤はいつもより30分遅い。
私は早起きでもなんでもなかった。
洗濯物を畳む。
指を動かすと、昨日の寒さで早速出来た、左手親指のあかぎれが痛い。痛くて、赤い。
玄関で、固いビニールががさごそいう音がする。今日はゴミの日か。
じゃりん、しゃりん、がちゃり「いってきまーす」
一連の物音は早くて、リズムを纏っていてきれいだから、部屋で聞き惚れているうちに
今日も玄関で見送れない。
私は部屋から遠吠えのような声で「いってらっしゃーい」と言う。
洗濯物が洗濯機に、ごうんごうん、と飲み込まれて行くのを見届けてから
残りの洗濯物をたたんで、しまって、昨日の小説の続きを読む。
ホテルの部屋を抜けて
バーを抜けて
ラウンジを抜けて
ああ、主人公が落ち込んでいる…
物語の中に入っていると、洗濯が終わるのはあっという間だ。
干し終わった、ピィーッピィーッピィーッという音が聞こえて来る。
ベランダにそれを干す。きのうとうってかわって、きょうはとても暖かい。
セルリアンブルーとか、パトリックブルーとか、よくわからないけど
とにかくそういう洋風の名前でよばれたらぴったりな青空。
景色の右奥には、善光寺さんの背中が見える。この家からの眺めは、とてもいい。
こんな天気のいい朝は、ベランダに座って本でも読んだらいいんじゃないか。
思い立ったら楽しくなって、
紅茶の出がらしにもう一度お湯を注いで、
昨日もらってきたパンを焼いて、バターを塗った。
けいちゃんが100均で買って来てくれた、ちょっとゆがんだお盆(木目調のプラスチック)に載せて、ベランダに出た。
読みかけの小説は「うつくしい人」という本で
地下の図書室を抜けて、
ホテルのバーを抜けて、ロビーを抜けて
港を抜けて、フェリーに乗って、物語は終わった。
あとがきを読み終えて、顔を上げると
ベランダのコンクリートの粒が、太陽の光を受けて、きらきらと、光っていた。
そういえば小学生のころ、自宅の瓦屋根の上で本を読むのが好きだったなあ、と
強烈に思い出した。
屋根の三角になっているところのてっぺんの丸瓦は、座り心地も良くないし
うとうとしようもんなら本気で屋根から落ちそうになるし
夏場は足の裏が焼ける様に痛かったりするのだけれど
屋根の上で本を読むのは快感だった。
雲が頭の上ちかくを漂っていて、家の向かいの畑で水くれをしている祖父は私の姿に気づいておらず
世界は鮮やかで、弾んでいた。
読み終わって顔をあげると、読み始めたころの空とは違っていて
西側に薄茜色した雲が線のように漂っていて
農業高校のビニール屋根がきらきらとオレンジ色に光っていて
小学生だった私は、満足のため息をついたものだ。
ごーん、ごーん、という、善光寺さんの鐘の音が、聞こえて来た。
東側に面していた左の頬が少しひりひりした。起きたときより、陽射しが強くなっている。
本を閉じて、食器を洗って、歯を磨き、着替えて家を出た。
マリーゴールドを一輪車いっぱいにつんで、大家さんが自宅に入って行くのが見えた。
大家さんは小さくて可愛いおばあちゃん。用事があって行くと、新種の可愛いおさるさんみたいに
くしゃって笑って出迎えてくれる。
大家さん、麦わら帽子に花柄のシャツ、水色のもんぺ。小さい後ろ姿。
目の覚めるくらいたくさん積んだ、レモンイエローのマリーゴールド。
絵画のワンシーンみたいだ。
空が高い。洋風の名前で、空を呼んであげたい気分だったけれど、
私は青の名前をそんなに知らない。
本日、清々しく、遅刻。